社会人サッカーのある日曜、帰る前の立ち話までが自分の時間
社会人サッカーで人数が足りない日に届く「来られそう?」の連絡。 その先には、到着に気づく仲間や、プレーを任せ合う時間、帰り際の立ち話があります。 試合の結果だけでは数えられない時間をたどり、サッカーのある生活に何が増えているのかを、そっと問いかけます。

金曜の夜、チームの連絡に「日曜、来られそう?」と届く。
出欠表には、まだ未定の名前が並んでいる。
自分の予定を見直して、「行ける」と返す。
少しして、「助かる」が返ってきた。
それだけのやり取りなので、スマートフォンを伏せれば、いったん忘れる。
日曜、会場に着くと、先に来ていた仲間がこちらを見て手を上げる。
まだスパイクも履いていない。
何かをしたわけでもないのに、来たことを確かめてもらうところから、その日のサッカーが始まる。
社会人サッカーは、何人から始まるか

人数が足りないと聞くと、まず「試合ができるのか」が気になる。
国際サッカー評議会(IFAB)の競技規則第3条では、各チームはゴールキーパーを含めて最大11人でプレーすると定められている。
一方、開始時にどちらかのチームが7人未満なら、試合を始めることはできない。
11人そろっていなければ必ず開始できない、という決まりではないのだ。
実際の参加条件については、出場する大会の規定も確かめる必要がある。
出典:国際サッカー評議会「競技規則第3条」
ただ、ルール上の人数が足りることと、いつものサッカーができることは、少し違う。
誰が来られるかで、任せられるポジションも、交代の相談も変わる。
出欠表の丸を数えていたはずが、そのうち名前を見て考え始める。
あの人がいるなら、後ろでボールを預けられる。
この人が来るなら、前で収めてもらえるかもしれない。
数えていたのは人数でも、思い浮かべているのは、それぞれのプレーだ。
もちろん、毎回そんなにはっきり期待を伝え合うわけではない。
「来るんや」「今日いけるんやな」くらいで、話は終わる。
それでも、自分が来たことに反応する人がいる。
日常の中で、到着しただけで誰かが少しほっとする場所は、いくつあるだろう。
人数が厳しい日の連絡は、受け取る側にとって重くなることもある。
行けない予定を変えられるとは限らないし、毎回応えられるわけでもない。
ここで思い返したいのは、無理をして出席した回数ではなく、行けた日に交わした、あの短いやり取りだ。
用事を済ませて会場へ着いたとき、誰が最初に声をかけてくれただろう。
その人は、何という言い方をしただろうか。
同じ「頼む」でも、何が違うのだろう
平日の仕事でも、誰かが休めば、残った人で担当を組み直すことがある。
今日中に必要なものと、明日まで待てるものを分ける。
いつもの担当者がいなくても進められるように、確認先を探す。
自分の作業だけを見ていたつもりが、いつの間にか周りの進み具合も気にしている。
そんな日を終えると、「頼まれる」という言葉だけで、少し身構えることもある。
ピッチで、普段と違う場所を任されたときにも、全部を同じようにはできない。
いつもの選手のように縦へ運べなくても、近くの味方へ早めに預けることはできる。
「前に出たら、こっちが残るから」
仲間のその一言で、自分が引き受ける範囲が見えてくる。
足りないところを、一人で全部埋める必要がなくなる。
仕事もサッカーも、誰かと役割を分けるという点では似ている。
ただ、日曜には、自分が助けるだけでなく、遠慮なく助けを求める場面もある。
戻れないときに名前を呼ぶ。
パスの出しどころがなければ、近くへ来てくれと手を出す。
相手もこちらへ要求するから、こちらも声を出せる。
何でも一人で済ませる顔を、少し脇へ置ける時間なのかもしれない。
本気でプレーしたい気持ちがあるほど、そんなやり取りは具体的になる。
欲しいのは励ましより、次のパスを出せるところに来てくれることだったりする。
ミスをしたら、その場で悔しい。
うまくつながれば、思わず相手を見る。
平日の出来事とは別の理由で、誰かに腹が立ったり、笑いかけたりしている。
サッカーをしているから、いつも機嫌よく帰れるわけではない。
判断が合わず、話がかみ合わない日もある。
それでも、帰り道で思い出すことが、仕事の続きだけではない日がある。
あそこで逆を見られたはずだ、と考えたり、味方の一言を思い出して笑ったりする。
一週間の中に、自分が気にすることの種類が、もうひとつある。
それを普段は、豊かさという言葉で数えないだけなのだろうか。
試合のあと、何の話をしているか

人数を数えるときには、小さな混乱も起こる。
「あと一人」と言っていた人が、自分を数えていなかった。
全員が少し安心したあとで、今度は「キーパー誰やる?」が始まる。
人数の計算は合ったのに、配置の話はまだ終わっていない。
出欠表だけでは片づかない相談が、靴ひもを結びながら続く。
助かった、と迎えられたはずなのに、試合では普通にパスのずれを指摘される。
来ただけで許される時間は、意外と短い。
こちらも負けずに、今のはもう少し動いてほしかったと言い返す。
頼りにされることと、気を遣われ続けることは違うのだと、こういう場面で感じる。
人数を埋めに来たつもりでも、始まれば、いつもの仲間として扱われる。
試合が終わっても、その日の会話はすぐには終わらない。
片づけながら、さっき合わなかったパスの話になる。
説明を聞くと、自分の見えていなかったところで、相手も別の判断をしていたと分かる。
納得することもあれば、まだ言いたいことが残ることもある。
その途中で、別の仲間が全然関係のない話を始める。
あれだけ真剣だった話が、いつの間にか笑い話に混ざっている。
帰る用意はできているのに、まだ立ち話をしていた日はないだろうか。
靴も履き替え、バッグも持ったまま、話の区切りを待っている。
早く帰りたかったはずなのに、もう少しだけその場にいる。
試合の時間を確保したときには、この立ち話までは予定に入っていなかった。
あとで一日を振り返れば、得点やミスは覚えていても、その会話はうまく説明できないかもしれない。
でも、確かに誰かと笑っていた。
来られるかと連絡をくれた人がいて、来たことに気づく人がいて、帰る前に話す人がいた。
「人数が足りない」という連絡から始まった日にも、そんな時間が残っている。
これは、サッカーへ行くことが、仕事でも家庭でもない場所で人と時間を分け合うということだ。
今日は、最近チームで笑ったやり取りをひとつ思い出してみる。
帰る直前まで話していたのは、どんな話でしたか。
その場にいた仲間と、この話を分け合えたら。
次に会う日の予定は、Pullawayの試合日程から。
PULLAWAY